カラテトランスフォーマーPROFILE

「会社は、午後7時半で強制退社です。残りの時間を充実させてほしいと、いつも社員に言っています」

 東京ベイ港支部に通う後藤夏樹さんは、2003年に創業された株式会社エス・エム・エスの代表取締役社長を務めている。同社は介護・医療・キャリアの分野を中心に、40を超えるサービスを展開。資本金は21億5252万円、2016年3月期の売上高は190億6910万円を計上し、右肩上がりの成長を続けている。社員数は連結で1714人を数え、高齢化が進む日本において同社への需要はますます増加していく一方だ。

 会社経営の多忙な生活を送る中、後藤さんは「社員に充実した生活を送るようにと言っておいて、自分が何もしない訳にはいかないでしょう」と2年3ヵ月前から東京ベイ港支部に通うようになった。なぜ、空手を選んだのか? 後藤さんは、少し恥ずかしそうな表情を見せつつ空手との関わりを語り始めた。

「じつは、僕が16歳、高校1年生の時に3年間、空手を習ったことがあったんです。高校はテニス部に所属していたんですけど、レッスンは月・水・金の週3日のみ。火・木に何か体を動かすことをしようと考え、たまたま仲の良かった友人が空手を習っていたので僕も始めることにしました」

 後藤さんが足を踏み入れたのは、極真カラテの名門・城南支部。フルコンタクト空手のトップ選手が揃う稽古は、過酷そのものだった。「道場は殺伐とした雰囲気で、組手はライバル意識が強く、いつもガチンコでした。週2回通っていましたが、週1回、月1回とだんだん足が遠のいていきました。最後は在籍するだけの幽霊部員のようでした」と当時を振り返る。入門当時から大会への出場を考えていたわけではないため、他の道場生との温度差があったのだろう。

 映画制作の仕事に関わりたいと考えていた後藤さんは高校卒業後、東京工芸大学へ進学する。この時に、高校時代の仲の良い友人が中央大学で大道塾空手の同好会を主宰していたため、1年間のみ、たまに参加していた。空手との接点はここまでで、東京ベイ港支部へつながるまでに約20年間の空白ができてしまう。その20年間の入り口は、破天荒な人生の幕開けとなった。

「大学の卒業が近づくと就職活動をし、小さな制作会社の内定をもらっていたんです。でも、そのまま就職するのはつまらないと思うようになってきまして、たまたま日本で知り合ったアメリカ人から『アメリカで映画を撮っているので興味があったら来ない?』と誘われて行くことにしました。その人の家に居候をさせていただき、映画制作活動を始めました」

 ニューヨークの小さな映画祭に制作した作品を出展するなど精力的に動いていたが、ある日、知り合いのアメリカ人から「オランダのアムステルダム映画祭に出展するので、ついて来ないか?」と誘われた。さすがにそれは断り、アメリカへ残ることに。もともとビザ取得のために、ニューヨークの市立大学に籍を置いていたため、学業を真剣に学ぶようになっていった。生活費が必要になり、アメリカで仕入れた商品を日本で売るためのオークションサイトを立ち上げ、生活の足しにしていたこともあった。

 大学院へ進んだ後藤さんは、2年間、ビジネススクールに通いつつオークションサイトで得た利益を学費と生活費に充てた。それをキッカケに商売を始めることはなく、大学院を卒業すると日本へ帰国。アイ・ビー・エムビジネスコンサルティングサービス株式会社(2010年、日本IBM株式会社に統合)に就職する。27歳の時だった。理由は、「日本の社会・組織を知りたかった」からだと言う。同社には約3年在籍したが、その後に日系コンサルティングファームで1年働き、今後の自分の人生について考えるようになっていった。

「父親が上場企業の役員でずっと背中を見てきましたが、日本が高度成長期の時とは違い、僕らの時代は成長する産業が限られてくると思いました。経済成長が止まると予想して、ピンポイントで成長領域に入ろうと思ったんです。その時に、情報、高齢社会、教育をキーワードにしてこれから伸びそうな企業を探して、今の会社に入社しました」

 

      

 2007年、入社した株式会社エス・エム・エスは、創業者が広い視野の持ち主で「会社を永続的にするためには世襲制などを排除して、後継者にバトンを渡す」という考えを実行に移し、後藤さんが選ばれることとなった。

 3年前に創業者から襷(たすき)を受け取り社長になると、やがて時間のコントロールができるようになってくる。妻がバレリーナで活動的なこともあったのか、仕事しかしていない夫を見て、ネットで空手道場を検索。「ここに行ってきたら?」と東京ベイ港支部を勧めてきたと言う。昔の怖さをどこかで引きずりつつ見学へ向かった後藤さんは、小井師範や谷口先生の丁寧な指導とフレンドリーな道場の雰囲気に触れて、その場で入会を決意して白帯から空手を再開することに。入会翌年には新極真会の第5回総本部交流(現=練成)大会に出場して、組手・シニア30男子軽量級ルーキーで優勝をはたした。

 

     

「最初は優勝できてよかったんですが、その後は調子に乗って苦難の連続です。肋骨を折られるなど、1回戦負けが続き、ボロボロにされています。でも、不思議と昔のように嫌にはなりません。やったことがないことに飛びつくと刺激になって視野が広がっていきますし、非日常を続けると日常になってきます。空手は、その総量を増やしていくための潤滑油ですね。できれば、これからもずっと続けていきたいです」

      

 稽古後に後藤さんは黄帯を締め直すと、汗を拭きながら満足そうな笑顔を見せた。